彼の地が公家たちを魅了したものとは?
今回取り上げる西南四国とは、主に高知県の幡多地方と愛媛県の南予地方を指します。この地域は中世において、一条氏や西園寺氏という中央(京都)の公家たちから注目されてきたことが、これまでの研究により明らかになっています。そこには経済・流通をはじめとして、いくつかの要因があるようです。
本展では、愛媛県歴史文化博物館の特別協力により、昨年度から共同調査を続けてきた成果をご紹介します。古文書や寺社に残る歴史資料、京都市や長崎県松浦市内の遺跡をはじめ発掘された出土資料を通じて、本展タイトルの「公家」という視点を据えながら、南西四国の中世社会を再認識していただく機会になればと思います。
Ⅰ章
吉田泉殿出土資料 鎌倉時代 京都大学文学研究附属文化遺産学・人文知連携センター蔵 吉田泉殿は、現京都大学吉田キャンパス付近にあった西園寺公経の別邸です。京都大学西部構内の発掘調査で多くの遺物が出土しています。西園寺公経(さいおんじきんつね)の時期の遺物群は、青磁等の貿易陶磁器や土師器(はじき)、瓦類等です。中世の京都を最も特徴づけているのは、 ろくろを使わず手づくねで作られた土師器の皿 (かわらけ)です。膨大な量が一度に廃棄された遺構が、多く見つかっており、儀礼的な場で使い捨ての器として使用されたと考えられています。 | |
西園寺公広(きんひろ)坐像
慶応3年(1867) 西予市光教寺蔵(愛媛県歴史文化博物館管理) 伊予西園寺氏の菩提寺光教寺(こうきょうじ)(西予市宇和町)に伝来する西園寺公広の坐像です。厨子(ずし)の側面の縁起には、当初は西園寺氏の本拠黒瀬城のあった黒瀬山に、西園寺氏を祀る黒瀬神社を建てて安置していたが、昭和11年(1936)に社殿の老朽化により後、西園寺公広卿記念会を設立し保管した、とあります。 | |
金幣 〔愛媛県指定有形文化財〕
永禄12年(1569) 西予市三島神社(神領)蔵 西園寺公次と宇都宮貴綱が三島神社(西予市宇和町神領)に納めたものです。公次は来村(くのむら)西園寺氏の出身といわれますが詳細は不明で、最後の当主公広と同一人物なのか別人なのかもはっきりしません。宇都宮貴綱は三島神社の所在地神領に近い久枝(西予市宇和町)の領主久枝宇都宮氏の一人とも考えられます。銅製の金鍍金(きんめっき)仕上げで、最上部と幣串(へいぐし)に宝相華文(ほうそうげもん)が施されています。銅板の垂(たれ)の先端には、神紋の「折敷(おしき)に三文字」の小板、および鈴が付いています。幣串の上部表裏に永禄12年(1569)の願文、中部に元禄9年(1696)の修復銘が入っています。 | |
一条房家画像(伝 鶴沢探龍筆)
天保13年(1842) 四万十市教育委員会蔵 土佐に下向した一条教房(のりふさ)の息子、房家(ふさいえ)の肖像画です。房家の菩提寺でもある藤林寺(宿毛市)に、房家追福のために奉納されたものと伝わります。応仁2年(1468)に前関白一条教房は応仁の乱勃発の翌年、自領の土佐幡多荘(はたのしょう)へ下向します。その後、戦国末期の兼定(かねさだ)まで5代にわたり中村(現四万十市)を拠点に土佐に支配を及ぼしました。房家は、土佐一条家の拡大、町の振興に努めました。伊予の西園寺公宣(きんのぶ)に次女を嫁がせ、姻戚(いんせき)関係を結んでもいます。天文8年(1539)に没し、藤林寺へ葬られました。天保13年(1842)に京都の一条氏は、家臣を藤林寺に派遣し、土佐一条氏家臣の子孫を招いて房家300回忌の法要を行いました。 | |
土佐一条家五代像
宇和島市龍集寺蔵 土佐一条氏にゆかりの7人を描いた肖像画です。「五代像」と題されていますが、最上部に一条氏の祖藤原鎌足を描き、その下に土佐に下向した一条教房から、長宗我部氏のもとで大津御所とも呼ばれた一条内政(うちまさ)までを描いています。 | |
四万十市具同中山遺跡群出土資料
鎌倉時代 高知県立埋蔵文化財センター蔵 本遺跡の場所は幡多荘の中心部であったと考えられています。出土遺物は、貿易陶磁器も多くみられ、写真の青磁碗も含まれています。特に瓦器が多く出土しており、畿内との交流を示しています。調査では大型の掘立柱建物跡が検出されていますが、荘官に関わる建物とも考えられます。 |
Ⅱ章
木造南仏上人坐像 〔高知県保護有形文化財〕
室町時代 四万十市教育委員会蔵 南仏上人は、一条氏の祈願寺である金剛福寺の中興の祖と言われ、高徳の僧として知られています。金剛福寺院主引退後、末寺の香山寺に隠居したと伝えられています。正嘉元年(1257)の政所下文(まんどころくだしぶみ)にみえる金剛福寺中興の勧進上人である阿闍梨慶全(あじゃりけいぜん)と同一人物の可能性が指摘されています。 | |
四万十市坂本遺跡出土資料
高知県立埋蔵文化財センター蔵 坂本遺跡は四万十市坂本の香山寺山東麓に位置しています。発掘調査において、13世紀から15世紀にかけての金剛福寺の末寺であった香山寺・里坊と推定される寺院遺構やそれに伴う遺物が出土しています。寺の建物の瓦を焼成した瓦窯跡が検出されており、大規模な寺院が存在していたと考えられています。 土師質土器のほか、東播系須恵器・備前焼・古瀬戸・常滑焼などの国産陶器、中国・東南アジア・朝鮮の貿易陶磁器などの多様な遺物が大量に出土しています。県内の集落遺跡ではみられない寺院に関する遺物類も含まれています。また土釜は大阪産と同じ特徴をもち、この時期における堺との強いつながりを示しています。 | |
等妙寺旧跡古図
松山大学図書館(西園寺源透文庫)蔵 山岳寺院である等妙寺旧境内(国史跡)を描いた古図を写し取った絵図です。原図は享保年間(1716~36)に作られたと考えられ、すでに建物が失われ、遺跡になっていた様子を描いています。谷筋に階段状に連なる平坦部や、それを取り巻く石積みなどの遺構のほか、山王、観音堂、如意軒院(如意顕院)、本坊跡、知光院(智光院)、上蔵院、そふとふ院(総堂院)、宝蔵院、延命院、福寿院という坊院名、楠うね、大樅谷、がらく谷、銚子ケ口谷、そうとふ谷(総堂谷)、はかの尾、地獄谷、不動谷、上ミ清水ケ谷、下清水ケ谷などの地名も書き込まれており、等妙寺境内に関する貴重な情報を知ることができます。 | |
鬼北町等妙寺旧境内出土資料
鬼北町教育委員会蔵 等妙寺からは、多くの遺物が出土しており、土師質土器・国産陶器・貿易陶磁器のほか、寺院関連の仏具や信仰関連遺物も含んでいます。14世紀前半~16世紀後半にかけての遺物が確認され、文献における中世等妙寺の存続年代と重なっています。特に注目すべき遺物として中国南部産とされる龍文貼付褐釉壺があります(パネル展示)。国内の出土数が極めて限られる貴重な資料で、これを入手することができた等妙寺の隆盛を物語ります。 | |
歯長寺縁起 〔重要文化財〕 ※期間限定展示(4/19(土)~5/6(火・振休)のみ)
至徳3年(1368)、享徳3年(1454)写 西予市歯長寺蔵(愛媛県歴史文化博物館管理) 歯長寺に伝わる縁起の中世の写本です。住職寂証(じゃくしょう)が至徳3年(1386)に筆録した内容を、享徳3年(1454)に秀栄が書写したものです。内容は等妙寺(鬼北町)と歯長寺の両寺院にまつわるものです。歯長寺は、もとは孝謙天皇勅願寺として建立されたと伝わり、後に西園寺家の代官開田善覚(かいだぜんかく)の発願により、戒壇院設立のため元応2年(1320)から宇和郡入りしていた理玉(りぎょく)和尚を中興開山として、元徳2(1330)に再興され、京都法勝寺(ほっしょうじ)の末寺となりました。寺院の由来を中心とする縁起とは趣が異なり、元応2年から67年間にわたり寂証が見聞した出来事や風聞などを記しており、元弘・建武年間(1331~38)の動乱に関する記事も多くみられます。 |
Ⅲ章
清良記(高串本)
享保16年(1731)写 個人蔵(愛媛県歴史文化博物館管理) 三間郷(宇和島市)大森城主土居清良(きよよし)の事跡を後世にまとめたものです。慶安3年(1650)から承応2年(1653)の間に、清良の子孫である土居水也たちにより作られました。原本は現存せず写本のみ複数確認されています。本資料は高串村(宇和島市)の庄屋土居家に伝えられた「高串本」と呼ばれる写本で、年次記載のある写本の中では最も古いものです。 清良が生きた当時の同時代の史料ではないため、内容は慎重に検討していく必要がありますが、土佐の一条氏や長宗我部氏、豊後の大友氏にまつわる内容が含まれ、三間郷はじめ南予が土佐西部や九州豊後と密接なつながりをもったことへの意識が垣間見えます。 | |
河原淵教忠掟書 「照源寺文書」 〔松野町指定有形文化財〕
永禄8年(1565) 松野町照源寺蔵(松野町教育委員会管理) 河後森(かごもり)城主の河原淵教忠(かわらぶちのりただ)が、菩提寺の照源寺(しょうげんじ)の寺領について、今までと変わることなく安泰であることを保証した内容です。現存唯一の教忠が発給した文書です。教忠は一条氏の一族から河原淵氏へ養子として入ったといわれています。 | |
松野町河後森城跡出土資料
15世紀後半~16世紀 松野町教育委員会蔵 県境の松野町の河後森城主には、土佐一条氏から迎えられた河原淵教忠がおり、西園寺家勢力圏にありながら、境目の領主として動いています。永禄11年(1568)の高島・鳥坂合戦では、一条方として参陣しており、城づくりも一条家臣団の影響を受けています。今回展示の資料は、土師質土器の皿、瓦質土器の風炉(ふろ)、国産陶器の備前焼や瀬戸美濃の天目茶碗、貿易陶磁器の青磁碗・皿、白磁皿、青花の皿類、鉄砲の玉類です。多くの貿易陶磁器が搬入されており、流通ルートを考えると広見川が四万十川と合流して太平洋にそそいでいることから、一条氏との関係も見えてきます。 | |
一条兼定宛行状 四月 鍛冶屋中務丞宛「柁谷文書」
天正5・6年(1577・78)頃カ 愛媛県歴史文化博物館蔵 一条兼定から高森城主の梶谷(かじたに)氏へ、懇意の謝礼として予土国境の土佐幡多郡下山郷の下家地(しもいえじ)内(四万十市西土佐)に所領を与える約束をした文書。兼定は天正3年(1575)の渡川合戦で長宗我部元親に敗れ、伊予へ逃れて宇和海の戸島に隠棲しました。そうした時期に梶谷氏から何らかの懇意を受けたと考えられます。しかし、兼定の置かれた状況からすると、この約束が守られることはなかったと思われます。かつて影響力を及ぼした南予にも、土佐追放後も援助を続ける勢力が存在したようです。 | |
長宗我部元親書状 7月28日 平出雲守宛
天正9~12年(1581~84)カ 高知県立歴史民俗資料館蔵 長宗我部元親から、大洲盆地東部の喜多郡平郷北山(現大洲市)の平出雲守(たいらいずものかみ)への書状です。北山から北方の田所城を攻略していたところ、手筈が違ったため退却したことをやむをえないとし、内子の曽祢宣高(そねのぶたか)と相談して、計略を進めるよう求めています。 書状からは、曽祢氏が平氏ら周辺領主の盟主となって彼らを率いた様子がうかがえます。また、北山の南西の元城跡(大洲市)では、長宗我部氏の城郭の特徴でもある畝状竪堀群が確認されており、付近が長宗我部勢力圏にあったことを城づくりの面においても裏付けています。曽祢・平氏らは長宗我部方、伊予灘に近い喜多郡北部の田所はおそらく河野・毛利方だったと思われます。在地勢力による田所の争奪ではあるが、背後に長宗我部氏の南予進出の思惑が見え、喜多郡北部を舞台にした長宗我部氏と河野氏・毛利氏との勢力争いの様子を見てとることができます。 | |
毛利輝元書状 天正12年(1584)10月29日 三隅寿久宛
愛媛県歴史文化博物館蔵 毛利輝元から石見国(島根県)の三隅寿久に、河野氏が火急の事態のため吉見広頼に軍勢300人を派遣するように命じたことを伝えた書状です。河野氏は、喜多郡の抵抗勢力を平定するため同盟関係にある毛利氏に加勢を要請し、輝元は7月に加勢を承諾しました。対応するように、喜多郡の味方を救援するため長宗我部氏も8月に出陣の覚悟を決め、9月には南予に侵攻しました。そこで毛利氏も、10月に応戦の加勢を命じており、本史料もその一環です。喜多郡をめぐる争いが、毛利・長宗我部という他国の戦国大名も巻き込んだ争乱に発展しました。 |
Ⅳ章
松浦市楼楷田(ろうかいだ)遺跡・宮ノ下(さが)り遺跡出土資料
松浦市教育委員会蔵 宇野御厨(うののみくりや)は、長崎県から佐賀県の北部を中心とした地域におかれた贄所(にえしょ)であり、海上交通に長けた松浦党の勢力範囲と重なります。ここから西園寺家に年貢を送ったとの記録もあります。この宇野御厨に 関わる「御厨」の東で伊万里湾を望む場所で発見されたのが鎌倉時代の楼楷田遺跡です。出土した土器・陶磁器類には、中国陶磁器の青磁や白磁、黒色土器や瓦器椀、土師器類に加え、瀬戸内東部から持ち込まれた東播系のこね鉢もみられます。また同市宮ノ下り遺跡からも同様な遺物が見つかっています。 両遺跡で共通して出土しているのが、同じ中国製品や畿内の瓦器椀と、隣接する彼杵郡で生産された滑石製品の石鍋類が多いことです。鎌倉時代において宇野御厨あるいは松浦と、瀬戸内や畿内をつなぐ存在がいたことを示しています。 | |
高知県内の石鍋・滑石製品出土の遺跡
高知県内の59遺跡から九州彼杵産の石鍋が出土しており、いずれも地域の流通にかかわる拠点となる遺跡です。本展では、四万十市坂本遺跡、同市具同中山遺跡群出土の石鍋を出品します。坂本遺跡は、一条氏とかかわりの深い寺院跡であり、具同中山遺跡群は鎌倉時代に幡多荘の中心集落でした。これらの遺跡には、当時石鍋を手に入れることができる有力者(一条家や東福寺)が関わっていたことを示しています。 | |
金剛福寺の仏飯器 〔土佐清水市指定文化財〕
天文9年(1540) 土佐清水市金剛福寺蔵 金剛福寺の観音堂と権現堂に奉納された青銅製の二口です。坏部外面に「堺奈良/屋与二郎/観音堂/寄進/天文九/庚子/八月十/九日/金剛/福寺」と刻されており、もう一口には「権現」と刻されており、堺商人が海上安全と商業繁栄を祈願して奉納したものと考えられます。 天文年間(1532~55)は、土佐一条家が土佐中央部に侵攻をして勢力を拡大し、弘治年間(1555~58)には房家の息子の尊祐が金剛福寺の院主となっており、この時期は、金剛福寺が寺院として勢力を拡大し、畿内との交流も頻繁に行われていたと考えられます。 | |
金剛福寺の青磁 〔土佐清水市指定文化財〕
宋代 土佐清水市金剛福寺蔵 一口は口が大きく開き、肩から胴上部にかけて唐草文、胴下部に蓮弁文が施されており、均整の取れた文様構成です。 もう一口は、直立した短い頸部に口がつき、胴上部に最大径をもつ長胴の瓶です。胴部全体に大ぶりの唐草文が彫られ、暗緑色釉中に貫入が入っています。 金剛福寺は、その経済力により、多くの中国産陶磁器を所持していました。入手は、一条氏を介した東アジアとの貿易によるものと考えられます。 |