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国史跡・岡豊城跡

 岡豊山は、四国を代表する戦国武将・長宗我部氏が居城を構えた場所です。山の頂上部には、詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段などからなる主郭部の曲輪を配置し、山の斜面には、横堀と土塁、竪堀群、切岸などといった堅固な守りを見ることができることから、岡豊城跡は四国の戦国期城郭を代表する遺跡として、平成20年(2008年)7月に国史跡に指定されました。
 さらに平成29年(2017年)4月、岡豊城は「続日本100名城」に選定されました(公益財団法人 日本城郭協会発表)。
 城跡以外にも、高岡郡津野町(旧東津野村)の山村民家(旧味元家住宅主屋1棟)を移設するなど、散策しながら学習できる歴史公園として整備しており、公園内では桜やつつじをはじめ四季の草花も楽しめます。
 香長平野にはいくつかの丘陵が点在していますが、岡豊山もその一つで、山は蛇紋岩からなっています。標高は97m、山は東から南斜面にかけて急傾斜で、北側はややゆるい斜面となり、西部には標高49mの小さな丘陵が続いています。南斜面の下には、国分川が流れ、西から南にかけて湿田となっています。築城当時も湿地帯が存在していたと思われ、自然の要害となっています。北は、低い尾根により四国山地に続いていたようですが、県道(旧国道)により分断され、またかつての公園化による山頂部への道路などの建設により城跡は変化を余儀なくされています。
 岡豊城跡の発掘調査は、高知県立歴史民俗資料館の建設に伴う周辺環境整備の一環として、県史跡整備に先立つ確認調査として昭和60年から平成元年に第1~5次発掘調査(国庫補助)、平成2年に第6次発掘調査を高知県教育委員会が実施しました。調査は、史跡部分の詰、二ノ段、三ノ段、四ノ段で行われました。詰では、石敷遺構や礎石建物跡、地鎮の遺構、三ノ段では土塁・石積み、礎石建物跡、階段状の遺構などが確認されました。また、多量の土師質土器や輸入陶磁器、年号の刻された瓦などが出土しました。これらの遺構は、発掘調査の成果にもとづき城跡の現状を変更せずに伐採や植栽を行いながら、遺構には盛土をし、出土状態を復元しました。岡豊城の築城年代は不明ですが、15世紀後半から永正5~6年(1508~09)に落城した時期(長宗我部元秀の頃)を含め、大高坂城に移転する天正16年(1588)頃まで存続したものと考えられています。
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出土品

つめ礎石建物跡、石敷遺構〈復元〉
城跡からは、瓦片や土師質土器片とともに、青磁・白磁・染付(そめつけ)とよばれる輸入陶磁器片、瀬戸・備前・常滑(とこなめ)などの国産陶器片、青銅・鉄製品、銭貨などが出土しています。また年号が刻された瓦や火縄銃の弾丸や信仰関係の遺物、鉄製品、銭貨も出土しています。
  • 天正三年銘瓦
    長宗我部元親が土佐国を統一した天正3年(1575)に大規模な改修をしたことがこの瓦から考えられます。瓦には「おかう之御…」「瓦工泉州…」「…天正三年」「□□…」と刻されています。
  • 岡豊城跡出土 犬形土製品
    四ノ段から右前脚を欠いた状態で出土しました。
    大坂城の大量出土例が知られていますが、全国的に出土し、その年代はほぼ16世紀に限定されています。
    イヌには魔を退ける呪力があると信じられ、またお産が軽いことから、安産を祈願したと考えられています。
  • 岡豊城跡出土 鉛玉
    火縄銃用の弾丸と考えられ、岡豊城跡からは鉛のインゴット(鋳塊)も出土しています。
    他の遺跡の鉛玉を分析した結果、鉛は国内産以外にも、中国、朝鮮、タイの鉱山で産出されたものも含まれています。
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