明治新政府側と旧幕府側が戦った戊辰戦争(1868~69)には、土佐からも迅衝隊(じんしょうたい)を主力とする部隊が出陣しました。薩長からやや遅れて参加した土佐藩兵は、甲州(現・山梨県)から会津(現・福島県)周辺までを戦い、箱館での戦争終結を待たず帰還しています。そのため、薩長に比べると犠牲者は少ないですが、それでも100名ほどが戦死しています。
当館でも、手紙や日記などの文字資料、軍服、スペンサー銃など、戊辰戦争関連資料を収蔵しています。これらは、戊辰戦争から150年を迎えた平成30年(2018年)に、当館や、当館から資料を貸し出した他館で数多く展示されました。しかし、土佐の戊辰戦争に関する文字資料は未解析のものも多く、研究が待たれるところです。
当館で寄託を受けている谷家資料も、そうした戊辰戦争関連資料のひとつです。従軍した谷作七は野市村(現・香南市)生まれ、谷家の養子となりましたが大石弥太郎の実弟です。兄・弥太郎とともに各地を転戦し無事帰郷、明治26年(1893)に62歳で没しています。
洋式の銃や大砲を多用した戊辰戦争は、日本人が初めて経験する近代戦でした。筆者は、幕末に土佐の武士がこぞって砲術習得に努めたことが、戊辰戦争での戦い方に大きく影響したと考えています。
長い海岸線を有する土佐は、早いうちから海防意識の高い土地柄でした。ペリー来航以前から、藩は身分の上下を問わず、武士に砲術の習得を命じます。例えば、秋山村(現・高知市春野町)に居住した郷士・島村右馬丞(うまのじょう)の日記(個人蔵・高知市立自由民権記念館寄託)からは、幕末、藩の海防小頭役(かいぼうこがしらやく)を務めながら近隣の仲間と共に和流砲術の荻野流の稽古に励んだ様子がうかがえます。右馬丞自身は老齢のため戊辰戦争には従軍しませんでしたが、従軍した郷士の樋口真吉や宮地團四郎、そして作七の兄の大石弥太郎らの記録からは、戦地で自ら連発銃を手に戦ったことがわかります。西洋の新式連発銃を進んで入手し、使おうとする背景には、幕末以来の砲術経験が確実に活きています。
谷家に伝わる記録によると、作七も島村右馬丞と同じく海防小頭役を務め、江戸で「火技(砲術)」を学んでいます。作七の記録「軍中記」に、銃砲に関する専門的な記述が目立つのもそのためでしょう。まずは谷家の資料、そして土佐に残る関連資料を読み解き、事例を積み重ねて、いずれ砲術や戊辰戦争の研究としてまとめることが目標です。
高知出身の筆者は、幼いころから、テレビや町なかの看板などでよく見かける坂本龍馬を「この人は高知の人なのに、なぜこんなに有名で人気者なのだろう?」と思っていました。それは長じて、龍馬以外にも、明治維新期に土佐の人物が数多く歴史の表舞台で活躍するにおいて、「なぜこんな田舎から歴史を動かす人物がたくさん出ているのか?」という疑問につながっていきます。歴史学を志し、今も歴史に関わる仕事をしている筆者の原点がここにあります。「土佐と維新」というテーマにおいて、人生を終えるまでの間に何らかの答えにたどり着きたいと思っています。
