既に会期は終了しましたが、企画展「西南四国の中世社会と公家」(会期:令和7年2月28日~5月6日)を副館長松田とともに担当しました。本展最大のテーマは、一条氏や西園寺氏がなぜ、中央から遠く離れた西南四国に下向したのかを探る、というものでした。土佐へ下向した一条氏の場合、その鍵を握るのは、一条氏の祈願寺でもあり、幡多地域の一条氏荘園経営等にも深く関わった足摺岬の金剛福寺です。
企画展は、事前に調査を行い、その成果を公開する、というのが開催の目的であり、通常の流れです。しかし、今回は、開幕後も多くの資料に関する情報が寄せられ、企画展はオープンしたら一区切り、ではなく、企画展自体が誘い水となり、資料に関する情報や見解が寄せられ、それが更なる調査研究の推進力にもなると感じました。その一例をご紹介します。
取り上げるのは、金剛福寺所蔵の資料です。本展に出品いただいた金剛福寺の青磁2口は今まで『高知県史』や『土佐清水市の文化財』等に掲載されており、その存在は把握しておりましたが、これまで門外不出とされていた資料のようで、鮮明な写真を見たことがなく、詳細はよくわかっていませんでした。そのような状況でありながら、本展を監修していただいた元同志社大学教授の鋤柄俊夫先生にご相談したところ、ぜひ金剛福寺に出品交渉を、というご助言をいただき、お寺に伺うことになりました。
いよいよ、拝見となり、特に青磁の釉色(ゆうしょく)の美しさに目を奪われました。1口は明るい青磁の色で仏前用の花瓶(けびょう)形、もう1口はオリーブグリーン色の長胴形でした。そして、2口ともほぼ完品で、堂々たる存在感を放っていました。
おそらく、中国で製作された後、金剛福寺が隆盛した中世のある時期にお寺に納められたと考えられますが、青磁には紀年銘は無く、納められていた箱は後に作られたようで、直接年代を知る手がかりはありませんでした。ところが、もう1件借用した仏飯器(ぶっぱんき)2口には、天文9年(1540)の文字が刻されており、お寺に納められた年代を示す有意な情報でした。
青磁は、調査当初に参考とした『土佐清水市の文化財』には「宋代」とあり、その年代は西暦でいうと960年~1279年です。ということは、仏飯器の天文9年(1540)とはかなりの年代のひらきがあります。青磁は仏飯器と同時期にお寺に納められたと考える方が自然であるが…と一抹の不安を抱えながら、図録編集の締め切りも迫っていたことから、そのまま「宋代」として図録に記載しました。
そして、企画展最終日に、陶磁器の専門家2名がお越しになり、青磁について有益な知見を得ることができました。いただいた情報によりますと、2口とも中国・龍泉窯(りゅうせんよう)産で、花瓶型広口の青磁は明時代中期(15世紀前半)、長胴型の青磁はそれより少し年代が下って、明(みん)時代後期~末期(16~17世紀)、ほぼ完品の伝世資料ということで、貴重な作品ということでした。このことから、金剛福寺の青磁は仏飯器とは近い時期に同寺に納入されたといっても矛盾はない、ということになります。
あらためて、仏飯器の銘をご紹介します。「堺奈良/屋与二郎/観音堂/寄進/天文九/庚子/八月十/九日/金剛/福寺」と坏部(つきぶ)外面に刻され、堺の商人の奈良屋が金剛福寺の観音堂に納めた、ということが記されています。
このことから想像を逞しくすると、青磁も仏飯器と同様に堺商人、あるいはこの地域に関係する人物の手を経てお寺に納められたと考えることができそうです。堺は、当時の日本を代表する交易の拠点でした。商人たちは東アジア・東南アジアとの交易ネットワークを担い、堺はその要所となり、その先の国内の文物流通にも関わっていました。
企画展は終了しましたが、青磁の製作年代が明らかとなり、あらためて仏飯器と青磁をセットで考える重要性を感じています。
金剛福寺は四国西南の足摺岬に位置し、当時の中心地である上方から遠く離れていますが、お寺に中国産の青磁がもたらされ、今日まで大切に守り伝えられてきました。その背景には、長い時間とともに広大なネットワークが広がっていたと考えられます。それは一条氏がなぜこの地へ下向したのか、という問いへの答えと重なるともいえそうです。
